行動委運動の中からの党〈組織性〉について―「組織性とは何か」

{一} 他人に対する自然的態度と社会的態度―組織性=“共同社会性”、他人との“協力”、団結。
@ 他人による自分への制約に対抗して逆に他人を制約し屈服せしめようとするかぎりでは、それが必要であるにしてもそれにとどまる限りでは、他人に対する単なる自然的態度、又は、自分のエゴイズムの単なる拡大、結局のところ特殊的個人としての自分のもとへの全大衆(すべての諸個人)の隷属を強要しているにすぎず、他人に対する人の関係ではあるが、人に対する人の自然的関係――しかもこの場合私的な――であって、人に対する人の社会的関係ないし“協力”ではない。――私欲の拡大。大衆に対する戒厳令。
A 他人との共同関係によってのみ可能となっている活動を、私的活動、対象に対する私的な働きかけとし、結局のところ、私にすぎぬ満足を追求することは、共同関係へのアマエ、傷つけ、その私的手段化、同時に、自分自身の全面的発達とならない一面化、発展する力を失った消耗となる。――分散。
B 自分を制約する対象への対象的な働きかけと、その結果を通じてその個人は発達するのだが、しかし、その活動が、他人との共同作業でない限り不可能な活動である限り、彼は、他人とその対象を共同の対象として確認していくために、その対象の表象が自分と他人とで異っているのでは活動が不可能であって、その対象を共同の認識にもたらし、かつ、活動推進的な機能ないし、活動へと駆りたてる欲望が、単に、私的な欲望ではなくて、共同の社会的欲望であることを確認しあうという必要にせまられる。単に、自分だけでは不可能なこと、他人との共同作業によってのみ可能なことを課題とすればするほど、個人はこの共同において、この共同においてのみ発達する。
C 人間は対象によって制限されていることを苦痛として感受する受苦的存在であり、だからその制限を克服して無制約者となろうとする激情的存在であり、そういうものとして人間は自然的存在である。しかし人間は単に自然的存在なのではなくて、人間的自然存在であり、自分自身に対してある存在であり、したがって共同的存在である。組織性とは根本的にこの共同性である。組織における分散主義も組織主義も、この共同性の私的利用であり、諸個人の共同による諸個人の発達に結局敵対する。
D 組織性の確立は、根本的に、この共同性または協力の確立でなければならない。それは単に道徳的要請として頭の中でひねり回すことではなくて、諸個人の共同の対象であるほかはない対象と格闘すること、その組織がこの共同の敵を敵として、したがって共同して闘うほかはない闘い、こうした課題と格闘せざるを得ない組織であるかどうかで決まる。その意味で、それがどういう組織であるかは、それがどういう活動であるかということと同じであり、組織性と一つのことである。
{二} 団結の二重性
@ 団結は共同の敵に対する諸個人の協力である。労働者の団結は資本に対抗する労働者相互の協力である。一方では資本に対する関係、他方では、労働者自身の共同関係。労働者の資本に対する闘争(運動)と労働者諸個人の団結(組織)。組織性と活動性。組織と闘争。団結と革命。プロレタリアの団結(「万国のプロレタリア団結せよ」)とプロレタリア運動(「圧倒的多数者のための圧倒的多数者の独立した運動」)。団結は闘争の結果であると同時に前提である。闘争の過程と結果を通じて諸個人が変化し発達する。その変化した諸個人が変化した敵(または真の姿を示していく敵)に対抗するために――その闘いの不十分さや誤りをも反省しつつ――団結を新たに生み直し、変化する。諸個人が特定の団結をはじめは必要不可欠な条件として、闘いの推進形態として、“紐帯”としてこの団結に規定されて闘うとすれば、あとでは、この変化し、発達した諸個人の闘争にとって“桎梏”とみなされ、その団結を変革して新たな団結として再生産(拡大再生産)する必要にせまられる。だから諸個人が特定の団結に規定されてのみ闘うとすれば、また他方、その団結も諸個人とその闘争に規定されて変革されなければならない。組織としていえば、組織はそれを構成する諸個人を規定し秩序づけると共に、他方、その組織自身が諸個人によって規定され、変革できうるものでなければならない。それは、あるいは激烈な、またゆるやかな、あるいは混迷をともなった、または明確な過程となるとはいえ、団結―闘争―団結は、団結―諸個人の変化―団結であり、組織としては、“上から下へ”とともに“下から上へ”ということが本質的にふくまれる。組織が組織である限りこの両方の過程をもっているのであり、単に「もつべきだ」ではない。この「もつべきだ」は、組織に対する道徳的要請の泣き言となるか、どうせ組織とは「上から下へ」しかないというふうにみて、官僚として居直ったり(上からの変化を期待し、またはあきらめて「いい面」をさがして自分をなぐさめたり)、組織一般から逃亡をはかったり、ただ別のよさそうな組織をさがしてそれを選択して移行し、またそれが桎梏として「上から下へ」の悲哀を見せることになると失望し、せいぜい勇気をまたふり起こして別のものへと、そうでなければ「上から下へ」(どんな現実的な集団も不可欠とする)も「下から上へ」もないルーズな組織をおくとすれば、それは有名無実の何の組織活動もないものにはまり込む。現実の組織が単に「上から下へ」ばかりでなく、「下から上へ」ということをも実際にふくんでいるのだとすれば、どうして、明らかに「上から下へ」でしかないと見られる組織が現にあるということは、どうしたことか? それは大勢がその組織の現状をまだ桎梏として見ていないか、桎梏だと思う者自身が自分の勝手な要求等から勝手にそう思っているのか、などの場合は別として、その組織が、単に名目的にではなく、実質的にどういう人たちを真の構成員としているかの問題であり、その実質的構成員の中では「下から上へ」もあり、他のものに対してはそれは否定されて「上から下へ」と一方的になっているはずである。労働者を直に構成員とする組織だけが労働者にとって「上から下へ」とともに「下から上へ」の過程も含むものである。
A 団結または組織は、他のものに働きかけることを通じて、自分自身を再生産させ発展させるものである、ということをみてきた。そこでその組織は組織外の大衆に対していかなる態度をとり、いかなる関係に立つのか? 「大衆の組織化と組織の組織化の一個二重の関係」だの「組織と実践の弁証法」だのという連中がいる。これは何を意味するか? まずそれは、「大衆」を向うに対象としておいて、その「大衆」に対してのこの連中自身の相互関係としては、「大衆」に“対する”組織であり、その「組織」が「大衆」に対して働きかけ、そのことを通じて、自分自身を再生産し、「組織化」すれぼするほどそれは「大衆」に対する関係が“自然的(対象的)関係”であり、この連中自身の相互関係(自己関係)が“社会的関係”であり、この闘争で「学」べば学ぶほど「大衆」に対する頑固な戒厳令、大衆運動(組織)の乗取り、「大衆」に対する卑小な“統治集団”(思想的同族、思想的血縁関係)の形成以外の何ものでもない。従ってそれは大衆にとっては「官僚的軍事的統治機構」の形成にほかならない。「大衆」に働きかけることが一方的ではなく、大衆に働きかけることにおいて、逆に大衆から働きかけられ、それによって自分を「反省」し「自己変革」し、「誤りは自己批判しないときは裏切りとなる」からと七転八倒してトンボ返りをするにしても、それによって「交互作用」だなどといっても何のなぐさめにもならない、見かけの上のことであり「虚構」である。対象に働きかけることによって、もっとはっきりいえば、対象に働きかけることにおいて、逆に対象によって自分が働きかけられるといっても、これは、「関係」なるものが「関係」である限りそうなのであって、生産において、人間は自然から働きかけられ、自然と人間の同一性が示されていくが、大切なことは、この実践においては、その全自然は「人間の普遍性」として現われるのだ。
 “我”が“汝”に対象的に働きかけ、それにおいて“汝”が“我”を対象として働きかけるとしても、その“汝”は“我の普遍性”として現われるにすぎず、“汝”はどこまでも“我”によって包摂され、“我”が“汝”を「代表」するものになるだけであり、どこまでも“汝”は“我”との協力者ではなく、“我”によって「代表」されるほかはなく、“我”と“汝”がどんなに同一性を明らかにするにしても同時にどこまでも異った存在であることが、この現実的な区別が消えないものである以上、はやい話が、“我”がどんなに本気で“汝”を代表しても、“我”の中に現実の生きた“汝”が入り切れない以上――そんなことができたら化物だということはいうまでもない――“汝”も“我”と同じことを追求するとすれば、それこそ自分を“唯一者”に高めようとする無限の葛藤であるほかはなく、相互の協力どころか相互に屈服せしめんとするキタナラシイ戦闘でしかない。要するに“我”と“汝”は他のものに対してこそ協力しなければならないこと、協力は単に相手を対象とするのではないということ、現実の“我”と“汝”は“我”と“汝”との両方によってしか真実に「代表」されることはなく、そうしたことこそが「共同関係」であり「協力」であるのだということ、これである。簡単にいって、この「大衆」への関係は「大衆と結びつけ、そうでなければ党は官僚的にサビてしまう」というスターリンと同じであり、「人民」により「学ぶ」君主として「人民」はどこまでも支配されるもの、支配者によって自分の悩みを知ってもらうもの、つまり君主の奴隷であって、大衆諸個人の自立の否定、その必死の磨滅、そういうものとしてのみこの連中の「独自性」が現実化することになる。
B 資本(その人格化としての資本家)に対してこそ労働者は団結し、資本との闘争のためにこそ労働者は相互に協力する。そしてこの協力のためにこそ宗派的分断は粉砕されていく。他のものに対してこそ人間は相互に協力できるということは、労働者にとっては、その“他のもの”とは資本であり、徹底的にそうである。この労働者にとっての“共同の敵”による労働者の苦悩(制約されているものの)とそれ故の激情(被制約者が逆に制約者になろうとする)は、この資本を“共同”の対象として確認して“共同”で立ち向うためにこそ、この資本を“認識”しようとし、また認識でき、かつ自分たちの衝動、欲望、要求をつきあわせて、共同の欲望、共同の要求として確認し、かくしてこの共同の要求、共同の目的のもとに団結して戦い、この闘争とその結果を通して、敵の正体の一層はっきりとした認識、自分たちの誤りや不充分さの点検、自分たちの目的の一層の明確化が新たな団結へと導く。大衆は単に働きかけるべき対象ではなく(それによって自分自身が対象的に働きかけられるにしても)共同作業の相手であり、そういうものとして早く共同の利害のため、労働者が共同して闘うために、である。こういうものとしてのみ労働者に対する組織ではなくて、労働者自身の組織が発展する。
 そこでまず大切なことは、安保にしろ日米同盟にしろ、世界情勢にしろ、国内情勢にしろ、工場の状態にしろ、それが〈労働者にとって何であるのか〉、〈労働者の運命にいかなる影響を及ぼすのか〉として明らかにされるのでなければならず、その要求も〈労働者階級の独自の要求〉を高く高く掲げるのでなければならない。この「共同の目」と「共同の要求」をもった団結、その点で階級的に発達した人たちの組織(党)は、大衆に対して、この「共同の目」と「共同の要求」をもって資本に対して共に闘うよう、協力するよう働きかけるのである。この資本との闘争においてこそ、〈労働者階級としての独自性〉が発展し、その独自性を、資本家以外の農民、小市民とは区別して意識し、〈労働者階級の独自の党〉として確立されていく。こうした労働者の団結においてのみ、労働者諸個人の発達が進むのだが、先に見た連中は、この階級としての独自性を消し去ってしまったものを大衆に対して掲げる、その「独自性」はただ「軍事」とか「核」とか「チェコ」とか「人民」とかを、これも階級としての独自性を消し去って掲げる、それが「大衆」への呼びかけであり、こんな「大衆一般」の中から労働者の独自性を引き出す(そう努力していると仮定して)のだと、この抽象的一般から労働者的特殊を引き出そうとするヘーゲルそのままに、しかもこんな「大衆一般」の団結から、現実の大衆が出てくるとすれば、次々にイデオロギーをもって、彼らを一層本格的に「代表」して彼らを服従せしめなければならぬわけで七転八倒し、「乗りこえ」ようとし「乗りこえられない」ためには、これと(こういうことではこのイデオロギー生産も生産力を失うので「哲学的産業家」も困ってしまうことになり、そこで)それも次々にいかさまにしたり、恫喝したり、隠微に磨滅させようとしたりして、反動的にあがくよりほかなくなる。その見本はこの連中の次の反安保スローガンを見ればよい。
 〈革マルの反安保スローガン〉
 「一、日米軍事同盟の再編強化を狙う七〇年安保粉砕!
 一、米軍事基地反対! 軍事物資輸送阻止!
 一、日本核武装化阻止!
 一、米帝と同盟した日帝の「核基地つき沖縄返還」策動粉砕!
 一、社共による沖縄「返還要求」運動をのりこえ、
  サ条約第三条破棄を通じて沖縄人民の解放をめざして闘おう!
 一、米帝のベトナム侵略反対!
 一、中仏核実験弾劾!
 一、ソ連・東欧五カ国のチェコ軍事侵入反対!
  ドプチェク式民主化反対!」

(革マル『解放』一九六八・一二・一付)

 「大衆一般」の抽象から、現実の大衆も、まして現実の労働者階級も決してでてきはせず、でてくるとすればそれに戒厳令をしくことしかない。この没階級的超階級的なスローガンで大衆を結集し、それを「永続的」にプロレタリア的なものに高めるのだと彼らは主張するかも知れぬ。しかし、第一にこの抽象された「大衆一般」から労働者的特殊を引き出すということ自身が抽象としてのみ可能となるわけだから、現実の階級的要求から出てくるのではなく、抽象的一般が生み出した抽象的特殊でしかなく、現実の闘争につかず離れずの所にいるようにしてこの抽象的特殊をつぶやくことでパクルという(労働者階級の独自性を現実の課題の中では安保でも、現状把握でも、スローガンでもほとんど追求さえしていないことは見られる通りであり、驚くべきほど一般的な世界に限られているのだが)ことしかできず、しかも第二に、この没階級的な「大衆一般」とは、現実には小市民のことであり、全く首尾一貫した小市民的スローガンを純化し、「緻密化」して提出しようとしているのであり、それでつくられる団結は小市民的団結でしかなく、それも、小市民的急進主義を「肉体派」として攻撃しながら自分自身は小市民的「ユーレイ派」となり、小市民の「世俗的エゴイズム」に対して小市民の「神学的エゴイズム」を対立させるということであり、第三に、こうした全くの天国から地上へ降りようとする運動、小市民から労働者階級に降りようとする運動も、労働者自身が種々の小市民的イデオロギーに取りつかれているのだから、その小市民的イデオロギーの世界から労働者の世界へと媒介されなければならないとして合理化する(それにしても小市民的イデオロギーの世界を純化して系統的に、しかもそれをスローガンとして示そうとし、たとえそれを系統的に示すことによって系統的に乗り越えるのだというにしても、労働者の世界は少しも系統的に示されはしないから、自分自身も他人も、この系統的な小市民的世界にプロレタリア的カスミをこめて、首までつかるほかはない)にしても、なるほど労働者はさし当り頭の中では小市民的世界のトリコになっているとはいえ、この世界を突破する現実の闘いの出発点は、現実の資本に対する直接的な要求とその部分的団結の中にこそあるということ、そしてこの直接の日常的な資本のイデオロギー的ゴマ化しの破れ目となる所からさらに資本との直接の攻防の向うにある資本家階級の利害と労働者の直接的要求の底にある階級的要求を引き出し、それによって部分的団結を超えて階級的団結につくというようにして、その小市民的世界がはじめて突破されていくのであり、要するに、労働者にとっては、労働者の直接的要求・部分的団結→階級的要求・普遍的団結としてはじめて、独立した階級としてふるまうことができるようになるにも拘らず、あの連中たちは、小市民的団結が労働者的団結になるのだと夢想しているわけである。労働者が自分の直接的要求の背後に自分自身の階級の独自の世界を見出そうとするまさにその時、小市民的世界が示されるというようになっているのだ。労働者にとって道は一つしかない。無数の生きた部分的団結を、労働者の普遍的な共同的要求(労働者階級としての独自の要求)のもとに階級の団結として結びつけること、これによってブルジョア的小ブル的世界は引きさかれるが、それこそ宗派対宗派の対立ではなくて、まさに宗派運動に対する階級運動の断固たる対立であり、その対立は、宗派の大衆に対する戒厳令とは決定的に異なる労働者階級の革命的独立のための闘争であり、そしてこの団結の中でのみ、労働者諸個人が自主性を獲得していくことができるのだ。〈行動委員会運動の中からの党〉こそが問題である。

{三} 現実の諸個人は彼らにふさわしい性格の団結しかもつことができず、また、この団結においてのみ、彼らにふさわしい個人性を発達させる。

@ 農民や小市民は、彼らの農民的小市民的生活にふさわしい共同性、団結しかもつことはできない。この社会性のもとでのみ、彼らの農民的小市民的生活を発展させるし、その生活の発展の桎梏となるや古い社会性は投げ捨てられ、新たな社会性へととって代わられなければならない。一定の条件のもとで生きている現実の諸個人は、その条件にしがみついて生きている限り、どんなにあがいても、彼らにふさわしい団結しかもつことはできない。われわれは、単に、どういう団結であるべきだと思いえがき、それにのっとって、組織計画をつくればよいのではない。官僚的組織は、ただあれこれのやり方をすれば官僚制がなくなるのではなく、どんなにあがいても、官僚的な組織しかもち得ない人たち自身の存在の問題である。社会主義社会を論ずるにしても、ある種の人たちはある種の「社会主義社会」しかもたらし得ないものとして、従って単に規範などとして問題にするのではなく、「その存在に応じて何をなすよう余儀なくされているか」として問題にすることに徹しなければならない。『共産党宣言』が、共産主義社会を端的に要約して、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる新たな共同体」と書きしるしていることの正しさは、現在直下に存在している労働者が、その存在に応じて、そういう社会しかつくり得ないものとして示されなければならない。「イデオロギーの相対的独自性」なるものを強調しながら、結局の所、労働者はイデオロギー次第でどうにでもなるかのように問題をたて、労働者の存在から頑固に問題をたてる者に対して「基底体制還元主義」という丸山真男ばりのマルクス主義批判を投げかけることしかできない連中は、労働者がイデオロギー次第でもう一度水におぼれないように、と有難い社会主義社会論や組織論を頭の中でひねり出そうとして自分が水におぼれていることに気がつかない。我々にとって、資本の鉄鎖のもとにある現実の労働者こそが問題である。この労働者はどのような団結しかもちえず、この団結において、またこの団結を通じて、いかなる人間に発展せんとしているかが問題であり、この労働者の発展に据えつけて組織路線を据えつけることこそが問題であり、「組織悪」なるものを除去するためのあれこれの幻想的処方箋が問題なのでは全くない。
 「かくて事実はこうである。すなわち特定の仕方で生産的に働いている特定の諸個人はある特定の社会的および政治的関係を結ぶ。経験的考察はそれぞれの個々の場合に社会的および政治的編成と生産との関連を経験的に、そしてどんなごまかしも思弁もなしに示すはずである。社会的編成と国家はたえず特定の諸個人の生活過程から出てくる。ただし諸個人といってもそれは自他の表象の中に現われうるような諸個人のことではなくて、現実に存在しているような諸個人、すなわち、働き物質的に生産しているような諸個人、したがって特定の物質的な、そして彼らの意志から独立な諸制限、諸前提および諸条件のもとで活動しているような諸個人のことである」
 「分業によって人的な力(関係)が物的なそれに転化されたという事実をふたたび解消するには、この事実についての一般的観念を頭の中から追払ったりしても駄目で、人間がこの物的な力をふたたび自分のもとに包括し、分業を廃止する以外に方法はない。そのためには人々の共同が是非とも必要である。〔他人たちとの〕共同こそが〔各〕個人が、自己の素質をあらゆる方面へ伸ばす方便なのである。それ故人格的自由は、共同においてはじめて可能である。国家その他、これまでに存在してきたインチキ共同態の内部においては、人格的な自由を享受しえたのは支配階級の生活関係のなかで自己を発展させた諸個人だけであり、彼等とてもこの階級に属する個人である限りにおいて人格的自由を持ち得たにとどまる。諸個人が従来相寄って結成した見かけ上の共同態は、いつも彼らに対立して彼らから独立した存在を獲得すると同時に、ある一つの階級がある他の階級に対抗するための団結であるというその性格からいって、被支配者階級にとっては、一つのまったくの幻想的な共同態であったのみならず、一つの新しい桎梏でもあった。本当の意味の共同社会において諸個人は、彼らの連帯の中において、またこの連帯を通して、同時に彼らの自由を手に入れる」(『ドイツ・イデオロギー』)。
 「人間は言葉の厳密な意味で社会をなす動物である。ただに群居する動物であるばかりでなく、社会の中でのみ個別化しうる動物である。社会の外で孤立する個人の生産――稀れな場合で偶然に迷いこんだ文明人にはたしかに起りうるが、彼の内心にはすでに社会力が働いているのである――というようなものは、共に生活し、共に語る個人のない言葉の発達というのと同じように、あり得べからざることである」(『経済学批判序説』)。
 「団結は資本に対する労働者の最も重大な手段であるばかりではない。もっと大切なことだが、それは官僚制の突破口であり、労働者が自主的にふるまうための方策である」(『マルクスのシュバイツァー宛の手紙』)

(一九六九年三月一五日/『著作集第二巻』所収)


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